2011年06月30日

定岡正二

giants20110630.jpg

定岡 正二(さだおか しょうじ)
1956年11月29日生まれ
鹿児島県鹿児島市出身
右投右打(投手)
背番号20

通算成績(9年) 215試合登板 51勝 42敗 奪三振492 防御率3.83

高校時代は名門鹿児島実業高校のエースとして、1973年春と1974年夏の甲子園に出場、ベスト4進出。
甘いマスク、高い実力が相まって女子中高生から絶大な人気を得る。

1975年、投手として読売巨人軍ドラフト第一位指名入団。入団1年目の自主トレが行われた多摩川グラウンドに2万人の観衆を集めたほどの人気ぶりであった。その人気の反面成績は伴わず、プロ入り後初勝利は1980年(第一次長島監督)まで待つことになる。その後藤田元司監督の下、江川卓、西本聖と共に投手陣を支える柱となる活躍をみせるが1982年の15勝をピークに成績は落ち始める。
1985年、近鉄バファローズへのトレードを拒否し、29歳で現役引退。

成績よりも記憶に残る選手のひとりだと言える。

《 あの人はいま 》

現在はTBSラジオの野球解説者

2009年04月17日

大友工




大友 工(おおとも たくみ、1925年2月1日 - )
兵庫県出石郡出石町(現豊岡市)出身
投手(右投/右打)
背番号 20


1949年、社会人軟式野球から巨人軍に入り
プロ入り後にサイドスローに転向。
1952年には松竹ロビンスを相手にノーヒットノーラン達成するなど、17勝を挙げ、以後別所毅彦とともに巨人のエースとして第2期黄金時代を支えた。

1955年には30勝6敗など敗戦数が少なく、当時の巨人投手陣の中では最も安定度の高い「計算できる投手」として信頼された。

巨人通算11年でMVP一回、最優秀勝率2回、最優勝防御率1回、最多勝2回、沢村賞1回。

 日本シリーズなど大舞台にも強かったが、注目されるのは53年秋、来日したニューヨーク・ジャイアンツ相手の完投勝利。日米の力の差が歴然と言われた時代、ジャイアンツを7安打、1得点に抑え、見事な完投勝利を挙げた。

1956年に死球を受けて以降は衰え、1959年オフ10年選手制度により近鉄に移籍。


野球人の一番大切な言葉として「努力」を挙げ、それを色紙に書いた。


にほんブログ村 野球ブログ 読売ジャイアンツ(巨人)へ

2009年03月26日

藤田元司

g0326.jpg


藤田 元司(ふじた もとし、1931年8月7日 - 2006年2月9日)
愛媛県新居浜市出身
投手(右投/右打)
背番号 21(一年目)→18、73(監督時代)


 大学野球が今よりも人気を集めていた昭和20年代から30年代にかけて、藤田は六大学のヒーローだった。オーソドックスなオーバースローから繰り出される快速球は、大学球界随一。しかし、投げても投げても優勝には縁がなく、“悲運のエース”とも言われた。

大学卒業後、日本石油を経て、1957年に大学の先輩である水原茂監督の誘いで読売ジャイアンツに入団。この年17勝13敗の好成績を挙げて新人王を獲得した。58年は29勝、59年は27勝で、2年連続MVP、勝率、防御率も1位。順風満帆のプロ生活だった。

 しかし、藤田の“悲劇”はまだ終わっていなかった。この時代の巨人は、セ・リーグでは圧倒的な強さで勝つものの、日本シリーズでは西鉄、南海の後塵を喫するなど、第2期黄金時代初期の強さはなくなっていた。特に3勝から4連敗した58年の日本シリーズでは、6試合に登板。西鉄のエース・稲尾を上回る防御率1.09と奮闘したものの、打線の援護なく2敗を喫し、西鉄に3連覇を許している。その後、選手たちの高齢化が進む中、孤軍奮闘の登板過多で肩を故障。60年以降は成績が急降下し、現役生活はわずか8年にとどまった。

現役引退後は川上哲治監督の下で投手コーチに就任し、堀内恒夫や高橋一三を育成して名伯楽として巨人のV9を支えたが1973年シーズン途中に投手陣不振の責任を取らされて二軍コーチに降格され、さらにスカウトへ異動させられるなどの辛酸も味わった。


その後、2度に渡って監督に就任。山本五十六の「やってみせ、言ってきかせて、させてみて、誉めてやらねば人は動かじ」を座右の銘に優れた人心掌握術・育成術で7シーズンでリーグ優勝4度、日本シリーズ優勝2度の成績を残した。


1996年、野球殿堂入り。

2006年2月9日、心不全のため他界。享年76(満74歳没)。戒名は「元投院球心篤應居士(げんとういんきゅうしんとくおうこじ)」。
読売ジャイアンツでは数々の功績やその人柄を称え、史上3人目となる球団葬を執り行った。

にほんブログ村 野球ブログ 読売ジャイアンツ(巨人)へ

2009年03月18日

沢村栄治

g0318.jpg

沢村 栄治(さわむら えいじ、1917年2月1日 - 1944年12月2日)
三重県出身
投手(右投/左打)
背番号14


黎明期の巨人、日本プロ野球界を代表する快速球投手

1934年(昭和9年)10月に京都商を中退した沢村は最年少の17歳で全日本に参加
ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグを擁する全米チーム相手に、静岡・草薙球場で、あわや完封の8回1失点、9奪三振の快投劇を演じ一躍勇名を響かせた。試合後、全米チームのコニー・マック監督は、「沢村を大リーグに寄越さないか」と話したという。


同年、日本初の職業野球団大日本東京野球倶楽部(現・読売ジャイアンツ)に入団。

投球の際にボールを握った右腕を後方にぐんと引くバックスイングと同時に、左脚を高く蹴り上げる独特のフォームから繰り出す快速球と大きく落ちるカーブを武器に1年目からエースとして活躍。後期は13勝で最多勝を獲得。プロ野球最初の優勝を決める阪神との決定戦では3連投で見事に阪神を2勝1敗で抑え、優勝を手にしている。
 2年目の1937年には56試合制だった前期のシーズンに24勝4敗、防御率0.81という超人的な記録を打ちたてて最多勝と最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率といったタイトルを総なめにする。

しかし、当時の時代が戦争が沢村の野球人生を真っ直ぐに歩ますことはなかった。

最初の徴兵によって中国の戦地に赴き、野球のボールの3倍の重さのある手榴弾を78メート投げる沢村にありったけの手榴弾を投げさせられて肩を痛め、戦闘中、左手を銃弾貫通の負傷、マラリアにも感染。

 曹長が「沢村、手りゅう弾一発かましてみい」と言う。無論立ってなんか投げられない。だが野球で鍛えた腕には、伏していても投げられる自信があった。死を覚悟した自分は、安全装置を取り、靴で発火させて投げた。すさまじい爆音が敵陣にあがった。手応えがあったなと思った。曹長が太い声で「手りゅう弾」と叫ぶと、辺りの戦友たちから、オレも我もと手りゅう弾を送ってきた。自分はありったけの手りゅう弾を次から次へと投げた。
昭和13年(1937):『野球界』に寄せた手記



球界復帰後はあの大リーガーを翻弄した速球は見る影もなかったがそれでもコントロールを中心とした投球術を披露。対名古屋戦3度目のノーヒットノーランを達成もした。

2年間プレーした後、2度目の召集がかかりパラオへ出征。
帰国して1943年にもマウンドに上がっているが、度重なる戦争での肩の酷使により、既に速球はおろか、コントロールさえも失われていた。

1943年7月6日、沢村は、阪神戦に先発で登板。四球を連発して3回5失点でKOされてしまう。巨人は契約を更改せず、1944年限りで解雇。

本人は移籍の希望を持っていたが、巨人軍オーナーから「澤村は、巨人の澤村で終わるべきだ」と諭されての引退となった。

失意の中、1944年(昭和19)12月2日、3度目の招集でレイテ島へ輸送途中、台湾沖の東シナ海で米潜水艦により雷撃され戦死。享年27歳。
戦死後の1947年7月9日、巨人は沢村の功績をたたえて背番号14番を日本プロ野球史上初の永久欠番に指定した。また、同年に澤村の功績と栄誉を称えて沢村栄治賞が設立された。

1959(昭和34年)に野球殿堂入り。

小学校から沢村が巨人に入るまで、バッテリーを組んでいた。山口千万石さんは松坂大輔(レッドソックス)を見て、「栄ちゃんによう似とるわ」と言った。



にほんブログ村 野球ブログ 読売ジャイアンツ(巨人)へ

2009年03月02日

ヴィクトル・スタルヒン

g090302.jpg
左からスタルヒン、呉波、白石敏男


ヴィクトル・スタルヒン(Victor Starffin , 1916年5月1日 - 1957年1月12日)
ロシア帝国生まれ

1936年、東京巨人軍に入団。背番号は17番。

日本プロ野球界初の外国人選手

191センチという戦前のプロ野球選手のなかでも飛び抜けて大きかった体格を活かした
上から投げ下ろすストレートを武器に活躍。

5シーズン連続最多勝、ノーヒットノーランを達成。特に38年のシーズン42勝(現在もシーズン最多記録)を残すなど、沢村が兵役で抜けた後の巨人支える大黒柱として巨人の第1期黄金時代の立役者。

プロ野球初の通算100勝を達成している。165試合目での到達は2007年現在も破られていない史上最速記録である。

1925年、ロシア革命による日本への亡命。
1939年、日ソ間で大規模な軍事衝突(ノモンハン事件)によるロシア人敵視が高まり
1940年、「須田 博(すだ ひろし)」に改名。
1944年、太平洋戦争の戦況が激化し、「敵性人種」として抑留。そのまま巨人退団を余儀なくされるなど当時の歴史、政治、戦争に翻弄された。


巨人時代(1944年まで在籍)の投手成績は199勝60敗、勝率.762、防御率1.36.

戦後は、パシフィック、太陽、金星、大映、高橋、トンボと球団を渡り歩く。

'57の1月12日、車の運転中に停車中の電車に激突し、40歳の若さで不慮の死を遂げた。



スタルヒン球場
旭川市民にとってスタルヒンは伝説的な英雄であり、その功績を称え、旭川市営球場には愛称「スタルヒン球場」が命名された。球場正面には等身大のスタルヒン銅像が建立している。

1982年9月の命名式に招待された別所毅彦は、球場正面に設置されたスタルヒン像を見上げながら「スタルヒンさんも幸せな人だ。」と笑顔でしみじみと語っていた。

2008年にはスタルヒン氏の長女ナターシャさん(56)が旭川スタルヒン球場での巨人−中日戦で始球式を務めた「父は戦前に巨人でプレーし、戦後はチームを転々としたが、巨人に戻りたい気持ちが強かった。私が始球式で投げるのは喜び以外の何ものでもない」と語った。


1960年、野球殿堂入り




にほんブログ村 野球ブログ 読売ジャイアンツ(巨人)へ

巨人軍選手名鑑